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スタンの日記です

親の戦争体験

①私の父の戦争体験
 父親は戦争時は15〜17歳だった。今は82歳でボケちゃって戦争の体験を聞くにも聞けないし、しっかりしていた時にも全く戦争の時の話はしなかった。母が亡くなって「遺族年金」の支給手続き等をした関係でなんとなく当時の様子が判ったんだが、尋常高等小学校(今で言う中学校?)を出た父は東京の吉祥寺にある「中島飛行機」で戦争のために飛行機をつくっていたらしい。戦後は亀戸の「三菱製鉄」で3年ほど勤めていたが、労働組合で経営側と対立して頭にきて辞めてしまった。当時、母の弟(叔父さん)と一緒の職場でよく錦糸町で飲んでいたらしい。その後、親(おじいちゃん)がしていて父の兄(伯父さん)が跡を継いでいた植木屋に弟子入りするも、兄弟で喧嘩して独立。その独立も母が「鶏口となるも牛後となる無かれ」とけしかけたことによるらしい。父の若いころの写真が残っているが、すごくいい男なのである。たぶん母はイケメン好きだったのだろう。
②私の母の戦争体験
 母親は父の1歳下である。昨年亡くなってしまった(享年79歳)。戦時中は今の江東区猿江で暮らしていたらしい。(以下は本人存命時談による)深川高等女学校(今の都立深川高校)には都電で通っていた。空襲で焼きだされて葛飾区上平井に移った頃に戦争が終わって、教科書を出版していた「中教出版」に電話交換手として勤める。出版会社に就職したのは「本が読めると思ったから」とのこと。実家は菓子を闇で扱った商売をしてドサクサに紛れて結構儲けたらしい。中教出版に在職時にGHQに目隠しして連れていかれて機密通信の交換手をするようにいわれるも「あたしは英語ができないし・・・イヤです!」って断ったとのこと。妹(叔母さん)の就職を当時の営業部長に取り付けたり、持参金で家を建てたり結構やり手だったらしい。子どもの自分が言うのもなんだけど「植木屋の女将さんにしては凄い人」だった。永年勤続で会社からもらった鏡は僕が形見としてもらい受けた。ときどき仕事がイヤになるとその鏡に自分の顔を映して自分を叱っている。ちなみにおばあちゃん→母→姉と見た目とキャラがそっくりである。


二人とも全くといっていいほど戦争中の話はしなかった。
たぶん生き残ったその時を暮らすのでいっぱいいっぱいだったんだと思う。
もっといろいろ聞いておきたかったな。
でも言いたくなかったのかもしれないな。
あるいは嫌なことは忘れようとしていたのかもね。
話したり書いたりすると記憶は増強されるからね。